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岐阜協立大学・野球部の新監督に岸江秀樹さん就任 ~2回の廃部経験 栄光と挫折の野球人生~(ぎふチャンラジオ・吉村功のスポーツオブドリーム)

岐阜協立大学野球部の新監督に就任した岸江秀樹さん(49)。あの人が岐阜協立大学の...
岐阜協立大学野球部の監督に就任した岸江秀樹さん

 岐阜協立大学野球部の新監督に就任した岸江秀樹さん(49)。あの人が岐阜協立大学の監督に…。吉村キャスターは早速グランドへ取材に向かいました。

 2023年夏の高校野球・奈良県大会。奈良県桜井市にある関西中央高校野球部は、ある事情から部員が4人になっていました。かつて智辯和歌山や天理高校と互角の戦いをした野球部でしたが、単独チームでは出場できず、近隣の高校3校(計13人)の合同チームで大会に参加しました。その初戦は6-13の8回コールド負け。岸江監督は「野球は甲子園だけではない。このしんどい思いはやがては良いことに結び付くよ。いい経験をしたんだ」と選手たちを慰めました。そして監督自身も青い空を仰ぎ、止めることのできない涙をこぼしながら「我が野球人生2回目の廃部か」とつぶやくのでした。関西中央高校の夏は終わり、野球部の歴史は幕を閉じたのでした。

 岐阜協立大学グラウンドに隣接するクラブハウス。岸江新監督は穏やかな表情と柔和な目で迎えてくれました。2回の廃部を経験し、栄光と挫折の野球人生を淡々と語ってくれました。

吉村キャスター:「野球の現役時代プレーヤーとしては、栄光の歴史ですね。出身高校は兵庫育英高校、甲子園も出場されましたね」
岸江監督:「3年の時、春選抜で甲子園に出場しました。ベスト8まで行きました。自分も左の強打の外野手としてクリンナップを任されていました。実は県大会はめちゃくちゃ打ったんですが、甲子園ではノーヒットだったんです。チームはベスト8の健闘で学校関係者は大喜びでしたが、私にとっては屈辱の甲子園でした。その悔しさは今でも引きずっていますね。打球がすべて野手の正面に飛んでいくんです。そうなると負の連鎖でスイングまで狂っちゃいました。でもこれは後々いい教訓になりました。自分がその後不振に陥ったとき、甲子園を思い出して、あの甲子園以上の苦しみはない。あれ以上の不振になることはもうあり得ないと何時も思うようにしていましたね」

吉村:「大学は首都大学リーグの帝京大学、2年秋にベストナインに選ばれるなど、大活躍でしたが、プロの道は考えませんでしたか?」
岸江監督:「水面下ではオリックスや阪神などに声をかけてもらったんですが、自分は社会人野球を選びました。ミキハウスに入団。一番全盛期の時代でした。2003年の日本選手権はベスト4まで行きました。補強選手を含めると、都市対抗に3回、日本選手権に2回出場しました。でもまさかあんなことが起きるとは…」
吉村:「実は2005年にミキハウス野球部は経済上の理由から廃部になるんです。これは全盛期の岸江さんにとっては、大きなつまずきになっちゃいましたね」
岸江監督:「本当にびっくりしました。企業あっての社会人野球ですからね。ちょうど30歳でした。会社にお世話になった以上、野球部と一緒にここで現役引退することにしました。現役生活はまっとうしたと思いますし、未練はありませんでした。そこからの人生が全くの想定外でした」

吉村:「岸江物語 ミキハウス野球部廃部で第一章の終わりですね。その華やかな野球人生から10数年も野球界から離れることになるんですが、野球への未練はありませんでしたか」
岸江監督:「心のどこかにはありましたね。野球一筋で生きてきた人間にとって、第二の人生は厳しかったですね。一応現役では結果を残していただけに変なおごりがあったんでしょうね。ある所では“野球の成績なんか関係ない。人間を見ているんや”といわれ、鼻柱をひっぱたかれたのは辛かったですね。仕事をなめてました。そんなとき、妻からパチンコ屋の清掃のアルバイトの仕事があると言われました。始めは“冗談じゃない”と思いましたが、真剣に働きました。店長から“こんな綺麗に清掃してくれる人は初めてだよ”と褒められ、そこからでしたね。働くということがいかに大切か教えてもらいました。忘れられない経験でしたね。今考えれば全てに甘かったです」

吉村:「2006年からは奈良県吉野町の町職員として働くことになったそうですが、長いブランクを経て2019年に桜井市の関西中央高校野球部にコーチとしてお声がかかり、再び野球の世界に戻ることになったと聞いていますが、実はここで大きな転機に遭遇することになります。岸江物語は、第二章に入ります」
岸江監督:「捨てる神あれば拾う神ありですね。吉野町のいわば公務員として働くようになり、自分もやっと落ち着きました。そして、知人の紹介で再び関西中央高校野球部にコーチとしてユニフォームを着るようになり、2020年に監督になりました。当時の野球部員は何人もの監督が交代し、大人を信頼できなくなっていたんでしょうね。選手たちは無気力、グランドは草ぼうぼうで、小石ゴロゴロ、野球部の部室はごみ溜めのようで、私の最初の仕事は草刈り、小石拾いでした。最初の頃は誰も協力する子はなく、えらいところに来てしまったと思いました。しかし、しばらくして一人、二人と私について草刈りを始め、やがては部員全員がやるようになりました。初めて心と心がつながるのを感じました。野球はメンタル面が大きく左右するスポーツです。心が通じれば練習にもいい影響が出てきました。監督の指示が通じるようになりました。2021年春の県予選では準々決勝まで進み、あの智辯学園と途中まで大熱戦。負けはしましたが、びっくりするくらい選手たちは心も技量も上達していました。選手たちも甲子園への夢をふくらませていました。更なる力をつけようと、新規入学の選手補強のため全国行脚して20人程の有望選手に声をかけ、何人かが関西中央高校に興味を持ってくれました。プレーヤーではなく、指導者としての楽しみ、喜びを心の底から感じ始めていました。しかし、その時です。関西中央高校―2022年春 新入生募集停止―。やがて来る野球部廃止。それどころか、学校廃校に近い告知に涙も出ませんでしたね。2021年 19人。2022年 11人。当たり前のごとく野球部員は減っていきました。辛い現実でした。2023年には、部員はマネージャー1人、選手4人になってしまいました。その夏、なんとか闘いの舞台に立たせようと近隣の学校に声をかけ、合同チームで大会に出場しましたが、初戦負けでした。最後の部員のたちの悲しみを思うと胸が張り裂けそうでした。残酷にも関西中央高校野球部の歴史は終わりました。
吉村:「言葉がありませんね。2度の廃部を経験された方は、そういらっしゃらないのではないでしょうか。第二章が終わりました」

吉村:「監督、すでに岐阜協立大学野球部新監督 岸江秀樹として、第三章が始まりましたね」
岸江監督:「そうですね。岐阜協立大学とは関西中央高校からのお付き合いで何人かの生徒の面倒を見ていただいたご縁と、前任の田原靖彪監督から“監督をぜひお引き受け下さい。私はコーチとして岸江監督を支えますので”この言葉で引き受けさせていただきました。

吉村:岐阜大学野球・春のリーグ戦は3月30日開幕です。新監督としてどんな野球をしますか」
岸江監督:「まだ就任して日もなく、選手の顔を覚えるのもおぼつかない状態です。でも選手たちとは暇があれば毎日一人、二人と20分ぐらいの面談をやってます。間に合うかどうかが心配ですが、まずは野球を通しての人間形成、これが第一です。高校野球でも大学野球でも同じです。野球はこじんまりまとまった野球は嫌いです。打者には思い切って振り切れと言っています。投手にも相手のバッターに怖がられるような投手になれと言っています。もちろん目標は神宮です。吉村さんには、開幕までにこんな素晴らしいメンバーが出来たと報告しますので、もう少し時間を下さい。岐阜大学野球(リーグ)は、監督さんもだいぶ変わったようですが、皆さんと一緒に盛り上げていきます。期待してください」
笑顔の中に力強さがあふれていました。

 第三章が栄光の野球人生になる事を祈りつつ、グラウンドを後にしました。

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